具志堅用高 世界戦KOダイジェスト 蘇るカンムリワシ伝説 [ボクシング]





強い!今みても凄い!。とてもJr.フライの世界戦とは思えない迫力とKOシーンですね〜。素晴らしい。具志堅用高 は歴史に残る名ボクサー、チャンピオンでございます!。


具志堅用高 プロ戦績
24戦23勝(15KO勝ち)1敗


◯wikipediaより引用流用

沖縄県石垣市(石垣島)生まれ。地元の中学卒業後、沖縄本島に渡り興南高等学校に入学。上原康恒の実父上原勝次や金城真吉、仲井真重次の特訓で天性の素質が開花。3年次でインターハイ・モスキート級優勝。同校卒業後に上京する。拓殖大学商学部の体育推薦入試に合格していたが、入学を辞退し協栄ジムに入門。

1974年5月28日、プロデビュー。

1976年10月10日、9戦目で世界初挑戦。"リトル・フォアマン"の異名を持つWBA世界ジュニアフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)に挑む。挑戦者が開始当初から軽快に動き回り、2回、4回にダウンを奪う。7回、3度目のダウンを奪ったところでKO勝ちとなり、沖縄県出身者初の世界王者となった。試合後「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と話したことから「カンムリワシ」の異名がついた。なお、9戦目での世界王座奪取は当時の国内最短記録となった(現在は井岡一翔の7戦目)。

1979年1月7日、2度目の防衛戦でも対戦したリゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)を7回KOに降し、7度目の防衛に成功。当時の日本人世界王者の最多防衛回数を更新(それまでの最多防衛記録は小林弘、輪島功一の6度)。

1979年4月8日、アルフォンソ・ロペス(パナマ)を7回KOに降し、8度目の防衛に成功。1977年10月の3度目の防衛戦からこれで6連続KO防衛となった。「世界王座6連続KO防衛」は日本人世界王者では具志堅しか達成していない(2010年末現在)。

1980年6月1日、マルチン・バルガス(チリ)を8回KOに降し、12度目の防衛に成功。ジュニアフライ級の世界王座防衛回数世界新記録(当時)を達成[2]。その後、10月12日にはペドロ・フローレス(メキシコ)を15回判定に降し、13度目の防衛にも成功(世界王座防衛13度は日本人世界王者の最多記録で、現在も破られていない)。

1981年3月8日、14度目の防衛戦で地元沖縄県での凱旋試合が実現。前回の防衛戦で対戦したフローレスと再戦。回が進むにつれ、挑戦者のプレッシャーをかわし切れなくなっていく。8回に最初のダウンを奪われると、迎えた12回、挑戦者の右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。辛くも立ち上がり試合続行に応じたが挑戦者の追撃に襲われる。ここでセコンドからタオルが投入され世界王座陥落。この試合を最後に現役を引退した。

引退後は解説者として活躍する一方、芸能界でのタレント活動にも参加している。1994年には日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設。現在は同ジムの会長として後進育成に力を入れ、元日本スーパーフライ級王者の名護明彦、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣らを育てている。

2010年4月から太田プロダクションと契約を結び、本格的なタレント活動を開始。同年6月に『クイズ!ヘキサゴンII』に出演すると、そのマイペースなキャラクターと珍解答で注目されてそのまま準レギュラーとなった。『ヘキサゴンII』には常連出演者となる前にも数回出演経験がある。

2010年5月に日本における元世界チャンピオン達と、プロボクシング・世界チャンピオン会を設立した。




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